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04 25
2013

男声合唱

歌う人のためではなく、聴く人のための男声合唱ガイド3 東大寺お水取りの声明――言葉よりも音楽が大事?

東大寺お水取りの声明
★★
東大寺お水取りの声明
東大寺お水取りの声明
東大寺一山僧侶
守屋弘斎(和上)
上司永慶(後夜・晨朝大導師)
橋本聖圓(日没大導師)
森本公誠(咒師)
北河原公敬、筒井寛昭(堂司)
平岡昇修(読経 頭一)
狹川普文、清水公庸(後夜時導師)
橋村公英(日没時導師)
上司永照(晨朝時導師)
森本公穣(読経 頭二)
稲垣観清(堂童子)

 ここに収められたのは、奈良の東大寺で演奏されたものではない。1996年8月に、東大寺の僧侶が東京公演を行った際のライブ録音である。

 本来であれば、東大寺二月堂で行われる「修二会」(しゅにえ)という法要について語るべきなのだろう。前回も前々回も、私は歌の背景や、詞の内容について語るのを意識的に避けてきた。これには2つ理由がある。まず、当ガイドの選曲基準の1つが「歌詞の意味がわからなくても楽しめるもの」ということにある。私は、音楽を鑑賞するにあたってライナーノートをあまり読まない。そんな自分が歌のバックグラウンドをもっともらしく力説すればするほど、もう1人の私がこう冷やかす気がするのだ。「意味がわからなくても楽しめるんでしょ? 何で解説してるの?」 ……うぐぐ、確かに。

 第2に、「もっともらしく」説明しようにも筆者にその能力が欠けている。語学力、音楽史、宗教の知識などだ。「もっともらしく」らしく語ることなら私にもできるし、今後も必要に応じて活用するつもりである。でも、前回のグレゴリオ聖歌にせよ、今回の修二会にせよ、他のサイトで十分に解説されているのだから、所詮付け焼き刃に過ぎない私が同じことを語る必要はないと思う。

 言い訳が見苦しいばかりなので、CDの紹介に移りたい。今回のCDの収録時間は67分近くとなっている。通して聴くのがたいへんだと敬遠される方も少なくないに違いない。ただ、今回とりあげる声明は、日本の他の声明に比べると非常にわかりやすい。「如来唄」「宝号」「五仏御名」「廻向文」のように、独唱者が何かを歌った後に、合唱がソロを真似するという手法がそこかしこに使われており、聴きどころがはっきりしている。先ほどの4つが出てくる箇所を下に示す(【】内の数字はトラック。時間は一応の目安)。

   如来唄  【1】3:18~3:58、【2】7:00~7:33、【3】1:04~1:11
   宝号   【1】22:30~26:55、【2】17:40~20:41、【3】2:39~3:22
   五仏御名 【1】28:01~28:50、【2】21:47~22:35、【3】4:01~4:11
   廻向文  【1】30:38~31:14、【2】26:55~27:21、【3】5:28~6:25


 他、「称名悔過」(【1】11:08~22:30、【2】13:35~17:40、【3】1:51~2:39)も、ソロと合唱の掛け合いを行いながら進行してゆく。

   *  *  *

 この録音で歌われる声明は、中国の僧侶である玄奘が訳した『十一面神咒心経』をもとにしている。ライナーノートに掲載されている「声明の唱句」を見て驚いたのだが、この「声明作品」の「作曲家」は、歌詞の扱いをかなり自由に行っている。もはや、乱暴と言ってもいいだろう。たとえば、先ほどの如来唄を以下に挙げよう。本来40文字ある原詞のうち、歌われているのはわずか11文字に過ぎない(太字が歌われる箇所。ついでにおことわりするが、今回は歌詞の内容にも多少踏み込む)。

  来妙色身
  間無与等
  無比不思議
  是故今敬礼
  来色無尽
  智慧亦復然
  一切法常住
  是故我帰


 「廻向文」はさらにすごい。119文字中、歌われているのは40文字。そのうち24文字が「向」(こう)という漢字だ。そのため、

  独唱「こう」 合唱「こう」、
  独唱「こう」 合唱「こう」……


の繰り返しとなってしまった。

 また、トラック2の「称名悔過」では、「南無十一面大悲」とある原詞を「一面大悲」としか歌わせていない。「作曲家」が勝手に十面減らしてしまった。「十」が歌われていない理由については引用箇所の前後を見ればわかるけれども、要するに、「作曲家」は言葉の意味内容よりも音楽のリズムを優先したのだ。詞をこのレベルまでぶったぎるということは、現代の作曲家でもなかなかできないことだ。ただただ、唖然とする。こんなことが昔にできたなんて。

 おそらく、やり始めた当初は猛反発にあったんじゃないでしょうか。「詞の意味がわからなくなる」とか、「仏への大切なお言葉を台無しにするなんて許せない!」とかね。でも、「作曲家」は意に介さなかった。言葉よりも音楽が大事なのだ。音楽が言葉に従属してはいけないのだ。言葉に気を遣うあまり、しまりのない音楽になることを何よりも恐れたのだ……こういう想像は、仏教音楽のことをまったく勉強していない筆者の脳内に留めることとしよう。

 この「作曲家」の大胆なところは他にもある。言葉を歌う速度だ。独唱がトラック1の8:02~8:57まで、つまり、およそ1分にわたって「願以此功」の4文字だけを歌う。これだけならさほど珍しくもないのだが、同じトラックの28:59からは、合唱が次の句を11秒ほどで唱えきってしまう(しかも最後の3秒ほどが最後の「三宝」という言葉を歌うのに充てられている)。暇な人は下の句を先ほどの時間内に音読していただきたい。無論、括弧内の条件も考慮に入れよう。

  衆生
  悉発菩提心 繁心常思念
  十方無量仏 復願諸衆生
  永破諸煩悩 了了見仏性
  猶如妙得等
  発願已 帰命礼三宝


 合唱団に上の句を一斉に読んでもらった時に実感できると思うのだが――そんな機会はあなたにも私にも来ないと思うのだが――言葉の聴き取りがたいへん困難になる。「作曲家」は故意にそれを目指している……としか思えない。もちろん音楽上の効果を狙ってのことである。ともあれ、「願以此功」では1文字あたり14秒ほどかかっていたのに対し、「衆生……帰命」では、1秒あたり(控えめに見積もっても)5文字。その差は70倍だ。歩く人間とF1マシンぐらいの開きがある。これだけの速度の幅をもつ歌曲や合唱曲は、現代にもそうそう見つからない。

 最後に余談。声明が男の世界だなあとあらためて思うのは、テキストの中にこういう句があるからだ。木村清孝・森本公誠による対訳も載せている。

  若但書写 是人命終 当生忉利天上
  是時八万四千天女 作衆伎楽 而来迎之
  其人即著七宝冠 於采女中 娯楽快楽

  もしただ(この経典を)書写せば、この人は命終えて、
  まさに忉利天《とうりてん》のうえに生まるべし。
  この時、八万四千の天女はもろもろの伎楽を作して、
  来たりてこれを迎えん。
  その人、すなわち七宝の冠《かんむり》を著《つ》けて、
  於采《うねめ》のなかにおいて娯楽《たのし》み快楽ばん。


 「経典を書写すれば、死後、天界でたくさんの天女に迎えられる。女官に囲まれて楽しく過ごせるんだよ」ってなあ……。真面目な祈りの中に、突然、男の欲望がむき出しに顕れるのがたまらない。噴き出してしまった自分は、きっと俗世でも死後でも女に恵まれないだろう。
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