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02 17
2014

男声合唱

歌う人のためではなく、聴く人のための男声合唱ガイド5 ケチャ

KECAK from BALI
★★★
Kecak-a Balinese Music Drama
Kecak from BALI


 第4回で書いたことを繰り返す。チベットや日本の聲明にせよ、グレゴリオ聖歌にせよ、それらは長い歴史の中で近年になってようやく注目されるようになった。「これらの担い手は人々を注目させる必要はなかった」とも書いた。

 バリ島のケチャはこの面で対照的である。その歴史は100年にも満たない。だがケチャは、その誕生の当初から外部に注目されるジャンルであった。現在もそう。バリ島の観光本を開けると、たいていケチャにもスペースが割かれている。たとえば、『地球の歩き方D26 バリ島2013~2014年版』(ダイヤモンド・ビッグ社)という本がある。その中に「バリで絶対に楽しみたいこと10」というのがあるが、9つ目「おすすめパフォーマンスはここです!」として、ウルワツ寺院のケチャが写真つきで紹介されている。「バリで一度は体験しましょう!」というキャプションつきで。

 男声合唱は、クラシック音楽のガイドブックにおいて「一度は体験しましょう!」と言われたり、「絶対に楽しみたいこと10」に入ったりすることはない。そもそも、男声合唱がその手の本でとりあげられることじたい稀だ(せいぜいグレゴリオ聖歌ぐらいであろう)。シューベルトの《水の上の精霊の歌 D. 714》や、ブルックナーの《ヘルゴラント》が掲載されている本をあなたはご存じだろうか。そもそもこの2曲は、男声合唱団員でも聴いたことがない方が多数派ではないだろうか?

 脇道にそれた。先ほど「100年にも満たない」と書いたように、ケチャは誕生して間もない民俗芸能である。モスクワ生まれのドイツ人画家、そして音楽家でもあるヴァルター・シュピース(1895-1942)によって生み出された。

 シュピースがインドネシア(当時のオランダ領東インド)に渡ったのは1923年のことである。渡航前、彼はアムステルダムの美術館で展覧会を開いているが、同市の博物館でインドネシアの芸術に接したことが、彼を旅立たせるきっかけになったといわれている。その9年前、彼は抑留され、ロシアのウラル地方に送られている。そこで彼は現地の伝承文化に接し、強い衝撃を受けた。このことも、ヨーロッパを脱出することになった原因の1つである。後に彼は手紙にこう書いている。

  ウラルの山々で三年間の抑留生活を過ごし、そこで本当の生活とは何なのかを
  知り、感じ、見てきた僕にとって、ヨーロッパで寛ぐことは不可能なことでした(1)


 1925年春、彼はバリ島を初訪問する。島の有力者から西洋音楽を教えるよう要望されたことがきっかけだったらしい。ここで彼はサンヒャン・ドゥダリという舞踊を見学している。合唱のリズムに乗って、幼い少女が恍惚状態の中、無我夢中に舞い踊る様子を見て、心を揺さぶられた。

 舞踏劇としてのケチャは、このサンヒャン・ドゥダリをもとに創作された。それは1930年5月、バリ島のブドゥル村の寺院で行われたサンヒャン・ドゥダリにさかのぼる。その際、男声合唱のリーダー役を務めることになっていた者が病気のため、イ・ワヤン・リンバックという20歳の若者がリーダーを代行することになった。

 合唱は、少女をトランス状態に導き、踊ってもらうための役割を演じる。しかしながら、リンバックは――自らもトランスに入ってしまったのであろう――突如立ち上がり踊り始めた。合唱を導きながら踊り狂うリンバックの様子に感銘を受けたシュピースは、儀式の翌日、村人に向かって舞踏劇を作ろうと提案した。

 その話し合いの中で、インドの「ラーマーヤナ物語」をもとにした劇になることが決まっていった。振付はシュピースが行い、踊りの中心役はリンバックが務めることとなった。

 当時のバリ島は、海外からの観光ブームの中にあった。シュピースは、村に伝わる儀式や踊りを観光客向けにアレンジする仕事を行っていた。彼が舞踏劇ケチャを外部に公開しようと村人たちとともに作り上げていた最中、彼はある仕事を引き受けることとなる。ヴィクトル・フォン・プレッセン監督による、バリ島を題材とした映画撮影への協力であった。その映画のクライマックスは、シュピースと村人たちによって作り上げられたケチャのシーンである。こうして、ケチャは映画を通して多くの人々の目に留まることとなった。

 その映画のタイトルは「悪霊の島」である(「悪魔の島」とも呼ばれている)。ケチャは、映画「悪霊の島」の制作にあたって創造されたという説が広く流布されているが、実際にはその少し前から作りあげられていたのだ。

 後に、シュピースはケチャについて、バリ人による創作だと主張した。しかしながら、リンバックによると、シュピースが重要な関与をしたということである。おそらく、彼は自分の役割を隠したかったのであろう。その理由は3つ考えられる。

 まず、彼の謙虚さゆえであろう。「私はバリ人の芸能を手助けしたにすぎない」と。

 2つ目は、村人たちの収入面である。シュピースが観光客向けに踊りをアレンジしていた理由の1つがこれなのだ。

 お客が見たいのは、本場の芸能である。自分が表に出たら、バリ人の芸能ではなく、シュピースの創作芸能だとみなされるだろう。それではツーリストたちに見てもらえなくなるのでは……(村人がお金を得ることができなくなるのでは)と考えていたのではないか。

 3つ目は、ウラル地方で過ごした頃から抱き続けた、民族文化への憧れである。

 踊りにせよ、音楽にせよ、それらの誕生にあたっては、作者(作者たち)がいたはずだ。しかしながら後の世代に伝えられる中で彼らの名前は忘れられた。バリ島では昔から絵や彫刻も盛んであったが、その制作者たちも忘れられた。作者という概念が必要ではない社会だったからである。バリには「芸術家」に相当する言葉はなかった(2)。「バリの人々はみな畑で働いたり、豚にえさをやったりするのと同じように詠歌を歌ったり、奉納の踊りを踊ったりする」(3)とシュピースは綴っている。

 彼は、バリ島の人々に共感を持つ者として、彼らと同じような道を望んだ。名無しの1人になればいいと、そう願っていたのではないか。

 もちろん、シュピースがケチャの創作にたずさわったことは多くの文献にある。踊り手のリンバックも公言している。シュピースの意図は失敗してしまったといえるのかもしれない。しかし、すべてのバリ島旅行者が、彼のことを知っているわけではない。そうした人たちにとっては、ケチャはバリ人のみによって作りあげられた伝統芸能だと信じられているであろう。なお、ケチャはシュピースの手を離れた後もアレンジが加えられた。ケチャは個人の仕事から、バリ島の文化へと着実に変わり続けている。

 シュピースがバリ島に旅立つ前、1922年の手紙にこう書かれている。

  民族芸能は、作者がわからないものほど真実をもたらすのです(4)


(1)伊藤俊治『バリ島芸術をつくった男――ヴァルター・シュピースの魔術的人生』(平凡社)p. 68
(2)同p. 79
(3)同p. 80
(4)坂野徳隆『バリ、夢の景色――ヴァルター・シュピース伝』(文遊社)p.85。ケチャのルーツについてはこの著書を参考にした。


   *  *  *

 今回、冒頭で紹介したCDは、手持ちのケチャの中から一番いいものを選んだ。国内盤では『甦る伝説のケチャ』が素晴らしい。300人以上の演奏なのにリズムがほとんど乱れないということに驚嘆させられる。また、本稿では一切割愛した、ケチャのリズムの解説については、『神々の森のケチャ』が実にわかりやすい。

 国内盤の2枚の解説を担当している大橋力は、山城祥二という名前でも知られ、芸能山城組の創設者としてケチャの普及につとめている。CD『芸能山城組入門』にケチャの合唱パターンを1パートずつ紹介するトラックがあるので、こちらを聴くことで、よりケチャへの理解が深まるであろう。

甦る伝説のケチャ
甦る伝説のケチャ

神々の森のケチャ
神々の森のケチャ

芸能山城組入門
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