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04 13
2014

男声合唱

歌う人のためではなく、聴く人のための男声合唱ガイド番外編 合唱指揮者の発言

 第1回「チベット仏教」で、アーチボルド・デヴィソンという合唱指揮者の発言を紹介した。男声合唱に長年たずさわり、ハーバード大学の男声合唱団をアメリカのトップレベルにまで引き上げた人物である。その彼から述べられたのは、男声合唱への絶望であった。

 今度は日本の合唱指揮者であり音楽評論家としても活動した、福永陽一郎の発言を引用する。彼もまた、大学の男声合唱団を日本有数の団体に育て上げた人である。合唱雑誌の座談会においての言葉から。

  合唱では男声や女声だけでは片手落なんです。音楽としては混声になりますよ(1)

 なぜ「片手落」なのか。その理由は直接には語られていない。しかし、彼はこのように続けている。

  昔は大学は男ばかりだったから、まず男声ができてそのうち女声がしっかりしてきて、
  ほんとの男女共学というのは確立されてないんですね。ですから混声がむずかしかった
  んですが、このところ各県に国立大学の教育学部があって音楽科がありますね。その
  へんを中心にして混声合唱を作りますから、強いわけです(1)


(1)『ハーモニー』41号「大学合唱団と合唱連盟――音楽とクラブ活動のはざまで」(全日本合唱連盟)p.8

 デヴィソンは男声合唱団や女声合唱団について、「音楽的理由でつくられたのでなく、社会的な理由でつくられている」とみなしていた。福永も同じことを指摘しているのは興味深い。男子校、あるいは、男の比率が高い大学では合唱をやろうにも女が集められない。それで男声合唱団ができる。逆に女子校では男を集められないから、女声合唱団ができる。

 彼らに共通する考えは、混声合唱が音楽的に理想の形態であって、男声/女声合唱は妥協の産物だということだろう。共学化が進めば、あるいは男女の比率が同一に近づくほど混声合唱が活発になるのは当然のことだ。しかしながら、そのことと、音楽芸術の良し悪しは関係があるのだろうか。

 デヴィソンは男声/女声合唱について、「混声合唱のもつ制限された音域や色彩を文字通り半分に切る」(2)と指摘している。混声合唱でさえ音楽的な制約がいろいろあるのに、男声/女声合唱はそこからさらに音域や色彩が制限されてしまうのだと。混声合唱の音楽的優位の主張はここから出発しているのだろう。

 なるほど、音域や音色が混声に比べて豊かでないことは確かだ(半分という表現が妥当かはともかく)。だからといって、そのことをもって音楽の優劣に結びつけるのはいかがなものか。彼の考えを他に当てはめると、独唱は二重唱に比べて、無伴奏合唱曲は伴奏つきの合唱曲に比べて音楽的に劣るということになってしまう。デヴィソンは、「君ら、男声合唱や女声合唱ばっかりやってないで混声合唱をやりなよ」という趣旨のことを書いたけれども、彼は歌手に対しても、独唱の劣位と、重唱への積極的な参加を主張するだろうか。

 彼は、そして福永もそのようなことは決して言わないだろう。混声合唱が男声/女声合唱よりもよいと彼らが判断する理由は、たぶん別のところにある。すなわち、前者に「名曲」が数多く存在しているという事実である。バッハの受難曲、三大レクイエム、《カルミナ・ブラーナ》――クラシック音楽のガイドブックにおける声楽・合唱部門で頻繁にとりあげられる作品はみな混声合唱だ(女声合唱をともなうホルストの《惑星》やドビュッシーの《夜想曲》は先の部門ではなく、管弦楽曲部門でとりあげられている)。そういえば、福永は1967年にこのようなことを書いていた。芸術歌曲を合唱曲に編曲する際の注意点について述べた文章である。

  ……オリジナルな作品の多い混声合唱の場合は、レパートリーの選択に困ることがない
  と言い得たとしても、1つのしっかりした形態に構成された作品の少ない男声合唱や女声
  合唱において、芸術的体験を豊富にするために、本来独唱用芸術歌曲を、まとまった形の
  合唱曲集にすることは、必要に迫られていると言っても、過言ではない(3)


 福永陽一郎は、国内外の男声合唱曲を集めた楽譜を数冊編纂したこともあるし、合唱の専門誌で海外の作品を紹介する役割もしていた(4)。本ガイドではかなり後の紹介になるけれども、19世紀に西ヨーロッパで起こった男声合唱運動についても十分に知っていたはずだ。すなわち、男声合唱の作品はたくさんあっても「1つのしっかりした形態に構成された作品」=「良い曲」が少ないのだと彼はみなしていた。当時の日本で彼以上に男声合唱に知悉していた者はほとんどいなかったはずだから、なおさらこの分野に悲観的になっていたに違いない。

(3)『合唱事典』(音楽之友社)p.101
(4)『合唱サークル』(音楽之友社)1966年11月号「男声合唱曲アルバム――主な曲と楽譜の手の入れ方」

   *  *  *

 「名曲」が混声合唱に比べて少ないのはなぜだろうか。先に挙げた曲目がことごとく管弦楽を伴うことがヒントになる。そして、「長いまえがき」で指摘したことをもう1回書いてみよう。「合唱に関わる人たちは皆、聴き手を増やそうということに関心がなかった」「クラシックの他のジャンルがみんな聴き手を増やそうと熱心に頑張っている中、合唱はひたすら怠けていたのだ」。最後に、混声合唱は管弦楽との共演の機会が多いという事実を挙げよう。以上から、次の結論を導きだすことができる。男声/女声合唱は、管弦楽界からの「手助け」を混声合唱ほど借りられなかったのだ。ある作品を社会へ周知するための力。それが管弦楽界にはありふれていて、混声合唱はそれを分け与えてもらうことができたが、男声/女声合唱はそれをほとんどもらえなかったということだ。

 オーケストラの分野には良い曲をみんなに紹介したいという思いがある人がたくさんいて、彼らは熱心に「これこれという作品はとてもいい曲ですよー、みなさん、ぜひ聴いてくださーい」と訴え続けた。もちろん、個々人によって「いい曲」は違っていたであろうが、そのうちに、「大勢の人(社会)がいいと言っている曲」が何かがわかってくる。当時、まとめサイトというものはなかったけれども、こんなのを作りたい人はページを編集するかわりに、著書や雑誌で「名曲まとめ」を発表したのだ。初心者も、これを頼りに良いレコードやCDを探すことができる。

 「ぜひ聴いてくださーい」と活発に声があがる社会では、作曲家は「良い曲を書かなければならない」と意識するに違いない。いい仕事をすれば大勢の人に評価される。自分の名声も上がる。当然のことだ。演奏会のプログラムに「名曲」と一緒に自分の新作が並ぶこともあるだろうから、「偉大な作品」に負けないようにしなければ、と考えても不思議ではない。「モーツァルトの交響曲はやっぱり傑作だねえ、それに比べて何とかっつう作曲家の作品はつまらん」とか言われることだってあるわけだから。良い曲を知らせようとする動きは、「大勢の人が認めた良い曲」=「名曲」を生み出すだけではなく、良い作品を育むパワーともなるのだ(5)

(5)クラシック音楽においてこのような運動が広がりを見せるようになったのは、19世紀になってからのようである。岡田暁生『西洋音楽史』(中公文庫)に、19世紀の音楽批評について書かれた箇所がある。彼は、当時の批評の使命を「『末永く聴かれるに値する記念碑的作品』を選定すること」だったと考えている(p.135)。

 管弦楽団ではオーケストラつきの合唱曲も演奏しているし、やるからにはお客が来てくれないと困る。やったことがある人なら分かると思うのだけれども(私はやったことがありませんが)、オーケストラが合唱を集めるのって、けっこうな負担である。そりゃそうだ、自分たちだけでやれることじゃないんだから。苦労をするなら、それに見合った成功をしなければ損だと思う。「ぜひ聴いてくださーい」という声をもっと大きく挙げないといけないのではないか。いやいや「ぜひぜひぜひ聴いてくださ―――い!!」とでも叫ぶか……。ともあれ、オケつきの合唱の分野においては、管弦楽界の「良い曲紹介運動」に支えられて、「名曲」がいくつも生まれることができた。先にも書いたとおり、混声合唱は管弦楽と協力することが多かったので、その影響を強く受けることができた。

 一方、合唱界には良い作品をみんなに広めたいと思う人がいない。管弦楽の分野からやってくれている宣伝に乗っかかるか、古楽のジャンルを開拓しようとする人たちのおこぼれに預かるだけで、自分たちだけではほとんど何もやっていない。混声合唱に「名曲」が多い理由が、管弦楽界からのパワーだとすれば、男声/女声合唱はその外部の力に恵まれなかったため「名曲」が少ないという見解はそんなに的外れではないだろう。なぜならば、混声合唱でもピアノ伴奏や無伴奏となると、一般のクラシック音楽ガイドで見かけることが俄然少なくなるからである(中世やルネサンス音楽も扱う本では無伴奏の合唱曲にも光が当たるようになるけれども、これは、古楽を広めようとした先人たちの影響が大きいだろう)。

 実際には合唱界にも「これこれという作品はとてもいい曲ですよー」と云う人たちはいる。しかしながら、彼らはたいてい合唱の指導者である。それは同じ指導者や、歌い手(特に選曲委員!)に向けられている。だから、次の言葉は「みなさん、ぜひ歌ってくださーい」「とりあげてくださーい」となるのだ。PRは内部だけで完結し、外へ向かうことがない。「良い曲紹介運動」というのはあっても管弦楽に比べてこじんまりとしているわけだ。こんな社会では、作曲家は「良い曲」を書かねばならないという義務感は薄い。オーケストラのための作品を書いた方が社会に認められ、名声が上がるのであれば、自分の音楽の才能をそちらに向けた方がよいと考えるのは道理にかなっている。デヴィソンは、合唱曲を作る現代の作曲家について「過去の例からほとんど何も学ぼうとしていない。なぜなら、かれらの多くは合唱を売文の糧以上のものと見ていないからだ(6)と怒っている。でも、見方を変えれば、合唱社会は作曲家に対しそのような学習を求めていなかったということになる(彼に「○○という『不朽の名作』に負けないような作品を作ってください」と要求できる男声合唱団はいったいどこにあるのだろうか?)。

(6)A.T.デヴィスン『合唱音楽の技法』(カワイ楽譜)、p.16

 これでは「名曲」が生まれようもない。合唱の魅力が知られるはずもない。グレゴリオ聖歌が有名になったのだって、自分たちが積極的に外へ広めたというよりもむしろ、古楽に詳しい人がこの分野に脚光を浴びせてくれたり、CDがたまたま大ヒットに恵まれたということの方が大きいだろう。

 このような内向きかつ怠惰な合唱界において、「外へもっと知られてほしい」という嘆きが起こることが不思議である。いや、不思議ではないか。合唱の聴き手向けの著書が皆無という現実から考えると、「俺はやらないけど、誰かがやってくれればいいなあ」という風にみんなが考えているとみなした方がよいだろう。

   *  *  *

  合唱人の一部の心ある人は、一般音楽社会が、合唱界を見おろしているようだ、と怒るが、
  私は、もっとおそろしい、他への無関心を、いわゆる合唱人の中に見る(7)


 福永は40年以上前に、合唱界の外部への無関心を痛烈に批判した。外部どころではない、たいていの合唱人は、他の合唱団にさえも興味がない。自分たちのことにしか関心を示さないのだと。いや、それどころか……。「私は大学合唱に関係して20年を超すが、卒業後、自分の出身合唱団に興味を持ちつづけている人は、全体の5パーセントに満たないと断言できる。残りの95パーセントは、おそらく自分が愛したことも忘れているのではないか(7)とも書いている。何という強烈な無関心! これでは外へ広めようとか言えるレベルではない。福永の批判は、現在にも通じることだろうか。

  優秀な合唱団の演奏会では、しばしば、一流のレベルに達した音楽が感動を生んでいる。
  しかし、だれもそれを知らない。だれもそれを知らせよう、知ってもらおうともしない。それで
  よいのだろうか……(8)


 かくのごとく憂慮した福永も、音楽評論家として、合唱を外へ広めようとする著書を残さなかった。みんなが怠け、「一部の心ある人」が嘆くということを長年合唱界で繰り返している間に、吹奏楽や現代音楽には聴き手を増やそうとする熱心な人物が登場していたのだ。

(7)『合唱新聞』1967年2月10日号。
(8)『合唱新聞』1966年12月20日号。(4)(7)(8)は鎌田雅子編『CONDUCTOR 福永陽一郎』(《CONDUCTOR》編集部、2010年)に再録されている。
03 24
2014

男声合唱

歌う人のためではなく、聴く人のための男声合唱ガイド8 コルシカの男声合唱

ア・クンパーニャ - イン・パディエッラ
★★

In Paghjella
In Paghjella

MP3バージョン

 前回とりあげたグルジアと、今回あつかうコルシカ島にはいくつかの類似点がある。前者が陸の要所であるとすれば、後者は海の要所であり、歴史上幾たびもの戦乱が繰り返されてきた。コルシカ島の支配者も何度か交代している(現在はフランス領)。政治の分野では、周知の通り、グルジアはスターリンの、コルシカ島はナポレオンの生誕地である。彼らが、世界史に残る英雄、あるいは独裁者として賞賛、批判されてきたこともよく知られている。言語の面でも注目すべきだろう。グルジア人はグルジア語、コルシカ人はコルシカ語という独自の言語を持っている。

 音楽の面で重要なのは、男声合唱によるポリフォニーが栄えたという共通点を持っていることである。そして、両者の音楽は長年にわたって伝承され、実にユニークなものだとみなされるようになった。

 グルジアとコルシカの相違点を挙げよう。一つは、キリスト教の受容である。グルジアにおいては、早くから受け入れられた。現在のグルジア東部を支配したイベリア王国がキリスト教を国教化したのは337年。ローマ帝国が認めるようになったのが392年であるから、それに比べるとかなり早い。讃美歌が作られたのも古くにさかのぼる。

 一方のコルシカでは、キリスト教の中心地であるローマに近いにも関わらず、なかなか浸透しなかった。ローマ帝国の東西分裂による国力の衰退、また、島へのゲルマン人やイスラム勢力の襲来により、「布教したいんだけれどもねえ……」みたいな状態が数百年ものにわたって継続した。島国共通の閉鎖性ということもあるだろう。コルシカ島では独自の国が発達することはなく、したがって彼らは自分たちを守るための武力に乏しかった。そんな状況で外からの攻撃に絶えず晒されていたわけだから、彼らは逃げる他ない。島を脱出するか、島の内部(山間部)にこもるか。彼らは後者を選んだ。そうすると、ますます外界との交流は少なくなってしまう。

 こうして、コルシカ島の治安が良くなった後も、伝道師にとっては仕事がやりにくい地域となってしまった。彼の地道な努力によってキリスト教は徐々に島民に受け入れられはするのだが、その障壁となった強い閉鎖性が島の文化を独特なものにしていった。

 グルジアとのもう一つの違いは、伝統音楽を危機に追い込んだ原因であろう。先にも書いたが、グルジアでは歴史上、さまざまな文化圏の国によって攻撃され支配された。音楽への弾圧も二度や三度ではなかった。そんな中で伝統が長年にわたって維持されている理由として、民族意識の高まりにあるものと推測した。

 コルシカ島もいく度かの戦乱は経てきたが、イスラム圏の影響から脱出した11世紀以降は基本的にキリスト教国どうしの激突であった。音楽が弾圧される危険性はグルジアほどにはなかったということになる。コルシカの音楽にとっての危機は、戦争や政治というよりも、むしろ第二次世界大戦後の急速な経済発展、あるいは都市化であった。若者の間に、仕事や教育、ライフスタイルなどさまざまな理由から、フランス本土、特にパリへ行きたいという憧れが強くなっていき、結果、島を離れる者が増えていく。島民の日常会話もコルシカ語からフランス語へと変わっていった。それにともない、コルシカ語で歌われる伝統音楽は消滅の危機に陥った。

 日本でもそうであったように、中央への集中が地方の衰退を招く。それを堰き止める力となったのは、「地方を見直そうじゃないか」とか、「地元のことは地元でやろう」といった動きである。コルシカの場合、1970年代の後半から80年代にかけて激烈な政治闘争にまで至った。その中で伝統音楽の再評価が行われるようになり、コルシカ語を歌うグループや歌手が多数現れるようになった。かつて、コルシカ島の地域主義と対立したフランス政府も、現在は島の文化を保護するようになっているという。

   *  *  *

 コルシカ島の歌にはさまざまなジャンルがあるが、その1つであるパディエッラは、2009年になってユネスコの無形文化遺産に登録された。パディエッラは、一言でいえば即興詩吟ということになる。ただ、そこから生まれ、長年伝承されてきた歌に対してもこの呼び名が与えられるようだ。とはいっても、やはり音楽を作りあげるにあたっては、即興で行わないといけないところが大きいようで、習得は簡単ではないらしい。基本は3声で、真ん中の声が詩を歌い上げ、それに低音と高音が次々に加わるといったぐあいである。

 コルシカの男声グループはいくつかあるが、今回は、1978年に結成された「ア・クンパーニャ」のCDを選ぶことにした。MP3アルバム版で試聴が可能である。ぜひ5曲目(So' centu voce di l'esse)を聴いてほしい。超低音が頭からしばらく離れなくなる。この、ロシアを思わせるような音は、コルシカの歌の主流にはないかもしれないが、これを聴くだけでも価値があるCDだ。
03 20
2014

男声合唱

歌う人のためではなく、聴く人のための男声合唱ガイド7 グルジアの男声合唱

トリオ・カフカシア 朝の微風――伝統的なグルジアの歌
★★
O Morning Breeze
O Morning Breeze

 ロシア、トルコ、アルメニア、アゼルバイジャンという4つの国家、および黒海に囲まれたグルジアにおいては、古くから合唱が盛んだったようだ。11世紀から12世紀にかけて活躍したグルジアの哲学者イオアネ・ペトリツィは、3声のハーモニーについての記録を残している。この頃の西欧の合唱が斉唱もしくは二部合唱が大勢だったことを思えば驚異的である。そして、グルジア人は三部合唱という形態を今でも守り続けている。西ヨーロッパで主流となっている4声の合唱は、彼らの音楽においてはそれほど多くない。

 四部合唱という形態に慣れた方からは、どうして彼らは3声で歌っているのかという疑問を持たれるかもしれない。彼らに言わせれば、4パートにする必要がなかったということであろう。なぜなら、男女で一緒に歌う習慣があまりないからだ。グルジア人は男だけ、女だけで歌うことを好む。混声合唱では、男女ともに声の高い者、声の低い者がいるため、男女をそれぞれ2つに分けるのは自然な要求であろうが、男声合唱や女声合唱では必ずしも4つに分ける必要はない。ドミソは3パートだけで鳴らせる(1)。もし、彼らが3つで物足りないと感じればソロを入れればよいと考えた。こうすることで、単純に4声合唱にするよりも音色の対比が大きくなる。合唱では困難な技巧を1人の優れた歌い手にまかせることもできる。

(1)多少専門的な注。ドミソのうち、一番高い音をドにしたい場合、3声だと下の音から「ミ、ソ、ド」とするのが一般的であろう。「ド、ミ、ソ」を和音の基本形というのに対して、「ミ、ソ、ド」は第1転回形と呼ばれ、後者は前者よりも不安定な響きとなる。下のドを加えて「ド、ミ、ソ、ド」とすればより安定した和声となる。4声のメリットはこういったところにある。

 それにしても、3声の合唱を少なくとも900年にわたって守り続けるというのは尋常なことではない。日本のような島国とはまったく違う環境だ。歴史上、四方のあらゆる国々によって攻撃され、支配された。ローマ帝国から、トルコやロシア、ペルシアから、そしてモンゴル帝国からも。もちろん、すべての支配者がグルジアの音楽を保護したわけではない。宗教音楽の中心となった教会は幾度となく破壊されてきた。

 グルジアの合唱音楽を変化させようという圧力は戦争や政治だけではなく、おそらく外の合唱界にもあっただろう。「4声にしようじゃないか」という“外圧”にも長らく晒されてきたに違いない。しかしながら、グルジア人はある程度は4声を受容しつつも、それを中心にすることを望まなかった。なぜだろうか。

 グルジアの合唱を現地で聴いた大橋力によると、グルジア人の中には「ポリフォニーは自分たちがヨーロッパに教えてやったと考えている人が多」いのだという(2)。彼らが本当に西側に伝えたのかどうかはともかく、このような意識を持っているということが重要だ。彼らの、伝統を守ろうとする態度は、おそらく日本人のそれを相当上回っている。自分たちを守るには戦力を高めるだけではない。民族意識の向上が大事だと考えたのだろう。そして、それを高めるためには、自分たちの生み出したものを磨き上げ、守り抜き、そして後世に伝えるという心構えが重要だと、彼らは古くから気がついていたのだろう。だからこそ、外の「新しいもの」に対しても保守的にならざるを得ない。

 彼らの「戦略」は成功した。グルジアの音楽が世界に広く知られるようになってからは、グルジア人だけでなく、他の人たちも守るべきものだとみなすようになったのだ。その証拠に、ユネスコが2001年に無形文化遺産の登録を始めた時に、グルジアの多声合唱は1回目に選ばれるという偉業を成し遂げている。

(2)CD『サカルトベロ奇蹟のポリフォニー――東西の陸橋カフカズの合唱』(ビクターエンタテインメント)

   *  *  *

 トリオ・カフカシア(Trio Kavkasia)によるアルバムを聴いてみよう。カフカシアとはコーカサスのこと。3人のグルジア人……ではなくアメリカ人によって1994年に結成された三重唱団である。Wikipedia英語版にも彼らの記事があるから、そこそこ有名なのだろう。今までに3枚のCDを発売していて、今回紹介するものは2001年にリリースされた2枚目である。

 本当はもっと大人数の合唱団によるものを挙げるべきだろう。もちろん、そちらの方が迫力たっぷりだ。このCDをあえて紹介するのは、彼らの演奏の良さだけではない。グルジアの音楽の個性である3声を、各パート1人で(つまりソロと合唱の対比を行わずに)演奏するだけでもどれだけ豊かな音楽ができるか――それが伝わるのに実に好箇だと思ったからだ。25曲中6曲は伴奏つき。

   *  *  *

サカルトベロの奇蹟のポリフォニー / 東西の陸橋カフカズの合唱
サカルトベロの奇蹟のポリフォニー / 東西の陸橋カフカズの合唱
 先の録音と対照的なものとして、注でも紹介したCDを挙げる。15曲収録されており、前半の7曲は女声合唱。残りが男声合唱である。「メスティアの男声合唱団」による「ザリ」がとりわけ素晴らしい。「平均年齢75歳」であることを感じさせない。

 今回の文章を書くにあたって、二見淑子「グルジア民謡とグルジア正教会の聖歌――その発展と性格(特に音組織)」という論文を参考にしたが、このCDの12曲目「ハッサンベグラ」の歌詞が日本語訳で掲載されている。
03 06
2014

男声合唱

歌う人のためではなく、聴く人のための男声合唱ガイド6 江戸の木遣り

江戸木遣り ベスト
★★
江戸木遣り ベスト
江戸木遣り ベスト
(社)江戸消防記念会 第五区木遣り会
杉林仁一/杉林久男/田中 昭/杉波弘匡/棟方信行/野口義之

  多くの皆様の中には、木遣りを聞いたことがある方もいらっしゃると思いますが、
  ほとんどの方がなにを言っているのか分からないと思います。


 第五区木遣り会が著したCD解説からの引用である。実際、歌詞を見ずに聴くと何を歌っているのかさっぱりだ。少し注意して聴けば、言葉を歌っていることはわかるのだが、一文字一文字が大幅に引き伸ばされている上に、全体の大半が「ヤーレー」だの、「ヨーイ」だの、「アーレーワーサー」といったものなので、意味を理解することは難しい。

 かつてコロムビアミュージックエンタテインメントの最高経営責任者を務めた、廣瀬禎彦の発言を聞いてみよう。

  歌詞はメッセージです。歌を歌うということはすなわち聴く人にメッセージを伝える
  ことです。したがって、まず、聴く人にとって歌詞がはっきりと聞き取れなければ
  なりません。自分は歌詞を歌っているつもりでも聴く人に届いていなければちゃんと
  歌えてない事と同じです。

  http://www.jpma-jazz.or.jp/feature/

 おそらく皆さんのほとんどが、「歌うことはメッセージを伝えること」という教えを受けたことがあるはずだ。その考えを至上とする立場からは、江戸木遣りの歌い手たちは「ちゃんと歌えてない」ということになるのであろう。CDの解説者=木遣りの担い手がなぜ、聴き手に歌詞を伝えられないという状況に甘んじているのか不思議に思うはずだ。もっとわかりやすく歌えないのか?

 彼らは内容の伝達を意図的に拒んでいるのだろうか。もちろんそうではない。でなければ、「なにを言っているのか分からないと思います」の後に、「そのようなわけで分かり易く〔歌詞を〕書いてみました。皆様方に歌っている木遣りが少しでもご理解いただければ幸いに存じます」(括弧内は引用者)と書くはずがない。相手に意味を伝えることよりも、他の面に力を入れることにしただけなのだ。

   *  *  *

 木遣りの歴史について触れよう。木遣りはもともと労働で用いられる歌であった。それが仕事の場を離れて祭りなどで用いられるようになり、やがて祝儀のための歌に変貌していった。今日の江戸木遣りは、後者のタイプに属する。なお、木遣りの原義は字の通り、「木を(どこかへ)やる」ということで、大木を動かす時に使われていた歌のようだ。他にも、重い物を運ぶ仕事、すなわち、家を建てたり、漁師が網を曳いたり、あるいは船を海に下ろす作業の際にも用いられるようになった。

 皆さんも、何人かで一斉に重い物を持ち上げたり、押したりするとき、誰かが「せーのっ」と号令をかけ、みんなで「よいしょっ」などと声を挙げることがあるはずだ。もともとの木遣りもそれと同じである。みんなが同時に力を動かすには、「よいしょっ」の声がバラバラであってはならない。テンポを合わせないといけない。さらに、大勢の人が働く現場なので、「せーのっ役」は周りに聞こえやすいように高い声を使わないといけない。木遣りのソロを担当しているのがたいがい、西洋音楽でいうテノールなのはそういうことなのだ。
 
 仕事をはかどらせるためには、「せーのっ」「よいしょっ」と次の「せーのっ」の間に長い休みがあってはいけない。「せーのっ」「よいしょっよいしょっよいしょっ……」とか、「せーのっ よいしょっ せーのっ よいしょっ……」といったぐあいにすれば一番いい。しかし、そうとう重い物を押したり引っぱったりする際には「よいしょっ」と次の「よいしょっ」の間には適度な時間を置かないと労働者が疲れてしまう。うーん……あんまり長くしてもいかんしなあ、短くしてもみんなが嫌がるだろうし……。そうだ! 何か言葉を入れて歌うことにしよう。歌ならテンポがあるからみんなも合わせられるし、仕事の苦しさも忘れられるんじゃないかな。

 こうして木遣りは誕生した。「何か言葉を入れて」と書いたけれども、あくまでも仕事をはかどらせるためであるから、別に意味のある文言である必要はなかった。つまり、囃子(はやし)言葉で十分であった。自分たちで考えたのか、他の民謡から取り入れたのか、ともあれ、「せーのっ」と「よいしょっ」の間に「コレハセー」だの、「ドッコイー」だのいろいろな言葉が混じるようになった。

 彼らも地域の一員として、宴会やお祭りにも参加していたはずだ。村人だって、木遣りの声を知らないはずがない。宴会にて村人の誰かが、「あんたら、いつもええもん歌うのー。どうじゃ、いつもやってる感じでお祝いの文句を歌ってくれんかー」と木遣り衆へ要求するといったこともあったろう。あるいは、労働者が木遣りの節を、毎日毎日同じように唱えるのは飽きたとか言いながら、祝い歌の歌詞をつけて歌いたくなったのかもしれない。歴史を語るとか言いながら筆者の想像がだいぶ入っているのだけれども、ともあれ、仕事歌としての木遣りはだんだん祝い歌へと変貌していく。

 江戸時代にはお蔭参り、つまり伊勢神宮への参詣が流行したそうだが、伊勢から帰った者たちは、「あっちではこんな歌が流行ってたぜー」などと言って、伊勢音頭を村人たちに伝えていた。木遣りを担う若者たちが感化されないはずがない。ああ、自分たちも歌いたいと。こうして、木遣りの歌詞は伊勢音頭の影響を受けてしまった。そして、ますます仕事歌から離れていく。

 「仕事のための歌」から「祝儀のための歌」への変化。このことは、歌の目的が「自分たちのために」から、「周りの人たちのために」「地域社会のために」へと取って代わられたことを意味する。彼らにはリズムを合わせる必要はなくなったのだ。かわりに、いかにして人々を歌声で魅了するかということに専念することになった。高い音を磨き上げたり、西洋音楽でいうところのビブラートをふんだんに入れてみたり。ずぶの素人には決して歌えない音楽へと鍛えられていった。

 このような疑問を持たれる方もいるであろう。「歌をやるんだからやっぱり、みんなで声の出入りや音程を揃えたほうがいいんじゃないの? 木遣りを聴いているとちっとも合ってないんだけれど。仕事でリズムを合わせてたんだから、それぐらいできるんじゃないの?」

 確かに。彼らだって、外部から「あいつら、声が揃ってねえじゃないか」と批判されれば改善しただろう。おそらくだが、周りはそのように咎めることをしなかった。おそらくを重ねるが、「むしろ揃っていないことがいいんだ!」と評価するようになった。そういえば、作曲家の黛敏郎は、読経の「音楽的な面白さ」についてこのようなことを語っていたことがある。木遣りにも当てはまることだと思う。

  それぞれ自分の一ばん声の出し易いピッチで自由に唱えるとき、不可避的かつ
  偶発的に、非常に複雑な複合音――現代音楽ではトーン・クラスターという――が
  生じ、それが計算されたハーモニーとは全く違った、豊かな音楽的世界を創り出す
  というところにある(1)


 黛が、上の解説を書くこととなった作品が交声曲《般若心経》である。彼はこの作品において、歌い手のピッチを自由にしようと意図した。

 作曲家の間宮芳生に、《合唱のためのコンポジション》という作品がある(2014年現在、第1番から第18番まで書かれている)。第1番の第1楽章は、江戸木遣りを素材とした男声合唱となっている。田中信昭指揮、東京混声合唱団の演奏(日本合唱曲全集 間宮芳生作品集)を聴いてみよう。音楽之友社の楽譜を片手にCDをかけると……あれ? テノールの入りがまるで揃っていない。最初の「ドットコーシェー」はちゃんと合わせられるでしょ? 何でそうしないの? もちろん、これは故意である。作曲家のアイデアか、指揮者の発想かはわからないが、わざとバラバラにしたのだ。

 以上、「同じでないことがいいことだ」と考える人たちの例を紹介した。「歌詞が聞きとれない」という問題も、木遣りの聴衆にとってはどうでもいいことか、むしろそれでいいんだということだろう。出初め式で歌われる木遣りがどういう内容のものかを周りが事前に知っていたとすれば、歌詞の伝達に重きを置く必要はないのだ。

 「ピッチ、リズムがともに乱れているし、歌詞も聞きとれない」というのは、合唱コンクールの場では致命的であろう。だが、木遣り衆と、彼らを取り囲む社会ではそう考えられていない。音楽の良し悪しは単一の価値観によってはかられるものではないのだ。ある種の人にとっては「ちゃんと歌えてない」と難じられるものも、他の人にとっては「実に立派な歌いぶり」と賞讃されることもある。私は皆さんに対して、後者のような立場で木遣りに接してほしいとは望まない。「聴いて損したよ」という感想があってもいい。ただ、このような音楽が成立するのは、それを望んでいる社会がある(あった)からだということが皆さんに少しでも理解できれば、私の紹介の目的は果たせたということになる。木遣りに限らず、チベットの聲明でも、ケチャでも、グレゴリオ聖歌でも、あるいはこれから登場する多くの男声合唱においても同じだ。

(1)「交声曲『般若心経』について」(LP『交声曲 般若心経』ワーナーブラザーズ・パイオニア L-10001W)
 
----------------------------------

 木遣りについては、宮内仁『日本の木遣唄1』『日本の木遣唄2』(日本図書刊行会)が詳しい。木遣りの変化の段階を、歴史を追いながら5つに分けて説明をしており、とてもわかりやすい。なお、江戸木遣りについては著者の意向により(他の人たちによる著述が多いためとして)詳述されていない。

 本文に組み込めなかったもので、ここで、消防団が江戸木遣りを担当している理由について簡単に書く。かつて、消火作業を行っていたのがとび職だったからだ。家の建築のプロである彼らは、周りへの延焼を防ぐために、家を破壊する仕事にも向いていた。木造建築が主流の時代では、彼らは木を運ぶプロでもあったわけで、木遣りを歌うにはもっともふさわしい。
02 17
2014

男声合唱

歌う人のためではなく、聴く人のための男声合唱ガイド5 ケチャ

KECAK from BALI
★★★
Kecak-a Balinese Music Drama
Kecak from BALI


 第4回で書いたことを繰り返す。チベットや日本の聲明にせよ、グレゴリオ聖歌にせよ、それらは長い歴史の中で近年になってようやく注目されるようになった。「これらの担い手は人々を注目させる必要はなかった」とも書いた。

 バリ島のケチャはこの面で対照的である。その歴史は100年にも満たない。だがケチャは、その誕生の当初から外部に注目されるジャンルであった。現在もそう。バリ島の観光本を開けると、たいていケチャにもスペースが割かれている。たとえば、『地球の歩き方D26 バリ島2013~2014年版』(ダイヤモンド・ビッグ社)という本がある。その中に「バリで絶対に楽しみたいこと10」というのがあるが、9つ目「おすすめパフォーマンスはここです!」として、ウルワツ寺院のケチャが写真つきで紹介されている。「バリで一度は体験しましょう!」というキャプションつきで。

 男声合唱は、クラシック音楽のガイドブックにおいて「一度は体験しましょう!」と言われたり、「絶対に楽しみたいこと10」に入ったりすることはない。そもそも、男声合唱がその手の本でとりあげられることじたい稀だ(せいぜいグレゴリオ聖歌ぐらいであろう)。シューベルトの《水の上の精霊の歌 D. 714》や、ブルックナーの《ヘルゴラント》が掲載されている本をあなたはご存じだろうか。そもそもこの2曲は、男声合唱団員でも聴いたことがない方が多数派ではないだろうか?

 脇道にそれた。先ほど「100年にも満たない」と書いたように、ケチャは誕生して間もない民俗芸能である。モスクワ生まれのドイツ人画家、そして音楽家でもあるヴァルター・シュピース(1895-1942)によって生み出された。

 シュピースがインドネシア(当時のオランダ領東インド)に渡ったのは1923年のことである。渡航前、彼はアムステルダムの美術館で展覧会を開いているが、同市の博物館でインドネシアの芸術に接したことが、彼を旅立たせるきっかけになったといわれている。その9年前、彼は抑留され、ロシアのウラル地方に送られている。そこで彼は現地の伝承文化に接し、強い衝撃を受けた。このことも、ヨーロッパを脱出することになった原因の1つである。後に彼は手紙にこう書いている。

  ウラルの山々で三年間の抑留生活を過ごし、そこで本当の生活とは何なのかを
  知り、感じ、見てきた僕にとって、ヨーロッパで寛ぐことは不可能なことでした(1)


 1925年春、彼はバリ島を初訪問する。島の有力者から西洋音楽を教えるよう要望されたことがきっかけだったらしい。ここで彼はサンヒャン・ドゥダリという舞踊を見学している。合唱のリズムに乗って、幼い少女が恍惚状態の中、無我夢中に舞い踊る様子を見て、心を揺さぶられた。

 舞踏劇としてのケチャは、このサンヒャン・ドゥダリをもとに創作された。それは1930年5月、バリ島のブドゥル村の寺院で行われたサンヒャン・ドゥダリにさかのぼる。その際、男声合唱のリーダー役を務めることになっていた者が病気のため、イ・ワヤン・リンバックという20歳の若者がリーダーを代行することになった。

 合唱は、少女をトランス状態に導き、踊ってもらうための役割を演じる。しかしながら、リンバックは――自らもトランスに入ってしまったのであろう――突如立ち上がり踊り始めた。合唱を導きながら踊り狂うリンバックの様子に感銘を受けたシュピースは、儀式の翌日、村人に向かって舞踏劇を作ろうと提案した。

 その話し合いの中で、インドの「ラーマーヤナ物語」をもとにした劇になることが決まっていった。振付はシュピースが行い、踊りの中心役はリンバックが務めることとなった。

 当時のバリ島は、海外からの観光ブームの中にあった。シュピースは、村に伝わる儀式や踊りを観光客向けにアレンジする仕事を行っていた。彼が舞踏劇ケチャを外部に公開しようと村人たちとともに作り上げていた最中、彼はある仕事を引き受けることとなる。ヴィクトル・フォン・プレッセン監督による、バリ島を題材とした映画撮影への協力であった。その映画のクライマックスは、シュピースと村人たちによって作り上げられたケチャのシーンである。こうして、ケチャは映画を通して多くの人々の目に留まることとなった。

 その映画のタイトルは「悪霊の島」である(「悪魔の島」とも呼ばれている)。ケチャは、映画「悪霊の島」の制作にあたって創造されたという説が広く流布されているが、実際にはその少し前から作りあげられていたのだ。

 後に、シュピースはケチャについて、バリ人による創作だと主張した。しかしながら、リンバックによると、シュピースが重要な関与をしたということである。おそらく、彼は自分の役割を隠したかったのであろう。その理由は3つ考えられる。

 まず、彼の謙虚さゆえであろう。「私はバリ人の芸能を手助けしたにすぎない」と。

 2つ目は、村人たちの収入面である。シュピースが観光客向けに踊りをアレンジしていた理由の1つがこれなのだ。

 お客が見たいのは、本場の芸能である。自分が表に出たら、バリ人の芸能ではなく、シュピースの創作芸能だとみなされるだろう。それではツーリストたちに見てもらえなくなるのでは……(村人がお金を得ることができなくなるのでは)と考えていたのではないか。

 3つ目は、ウラル地方で過ごした頃から抱き続けた、民族文化への憧れである。

 踊りにせよ、音楽にせよ、それらの誕生にあたっては、作者(作者たち)がいたはずだ。しかしながら後の世代に伝えられる中で彼らの名前は忘れられた。バリ島では昔から絵や彫刻も盛んであったが、その制作者たちも忘れられた。作者という概念が必要ではない社会だったからである。バリには「芸術家」に相当する言葉はなかった(2)。「バリの人々はみな畑で働いたり、豚にえさをやったりするのと同じように詠歌を歌ったり、奉納の踊りを踊ったりする」(3)とシュピースは綴っている。

 彼は、バリ島の人々に共感を持つ者として、彼らと同じような道を望んだ。名無しの1人になればいいと、そう願っていたのではないか。

 もちろん、シュピースがケチャの創作にたずさわったことは多くの文献にある。踊り手のリンバックも公言している。シュピースの意図は失敗してしまったといえるのかもしれない。しかし、すべてのバリ島旅行者が、彼のことを知っているわけではない。そうした人たちにとっては、ケチャはバリ人のみによって作りあげられた伝統芸能だと信じられているであろう。なお、ケチャはシュピースの手を離れた後もアレンジが加えられた。ケチャは個人の仕事から、バリ島の文化へと着実に変わり続けている。

 シュピースがバリ島に旅立つ前、1922年の手紙にこう書かれている。

  民族芸能は、作者がわからないものほど真実をもたらすのです(4)


(1)伊藤俊治『バリ島芸術をつくった男――ヴァルター・シュピースの魔術的人生』(平凡社)p. 68
(2)同p. 79
(3)同p. 80
(4)坂野徳隆『バリ、夢の景色――ヴァルター・シュピース伝』(文遊社)p.85。ケチャのルーツについてはこの著書を参考にした。


   *  *  *

 今回、冒頭で紹介したCDは、手持ちのケチャの中から一番いいものを選んだ。国内盤では『甦る伝説のケチャ』が素晴らしい。300人以上の演奏なのにリズムがほとんど乱れないということに驚嘆させられる。また、本稿では一切割愛した、ケチャのリズムの解説については、『神々の森のケチャ』が実にわかりやすい。

 国内盤の2枚の解説を担当している大橋力は、山城祥二という名前でも知られ、芸能山城組の創設者としてケチャの普及につとめている。CD『芸能山城組入門』にケチャの合唱パターンを1パートずつ紹介するトラックがあるので、こちらを聴くことで、よりケチャへの理解が深まるであろう。

甦る伝説のケチャ
甦る伝説のケチャ

神々の森のケチャ
神々の森のケチャ

芸能山城組入門
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