HOME   >>  
-- --
--

スポンサー広告

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
03 24
2014

男声合唱

歌う人のためではなく、聴く人のための男声合唱ガイド8 コルシカの男声合唱

ア・クンパーニャ - イン・パディエッラ
★★

In Paghjella
In Paghjella

MP3バージョン

 前回とりあげたグルジアと、今回あつかうコルシカ島にはいくつかの類似点がある。前者が陸の要所であるとすれば、後者は海の要所であり、歴史上幾たびもの戦乱が繰り返されてきた。コルシカ島の支配者も何度か交代している(現在はフランス領)。政治の分野では、周知の通り、グルジアはスターリンの、コルシカ島はナポレオンの生誕地である。彼らが、世界史に残る英雄、あるいは独裁者として賞賛、批判されてきたこともよく知られている。言語の面でも注目すべきだろう。グルジア人はグルジア語、コルシカ人はコルシカ語という独自の言語を持っている。

 音楽の面で重要なのは、男声合唱によるポリフォニーが栄えたという共通点を持っていることである。そして、両者の音楽は長年にわたって伝承され、実にユニークなものだとみなされるようになった。

 グルジアとコルシカの相違点を挙げよう。一つは、キリスト教の受容である。グルジアにおいては、早くから受け入れられた。現在のグルジア東部を支配したイベリア王国がキリスト教を国教化したのは337年。ローマ帝国が認めるようになったのが392年であるから、それに比べるとかなり早い。讃美歌が作られたのも古くにさかのぼる。

 一方のコルシカでは、キリスト教の中心地であるローマに近いにも関わらず、なかなか浸透しなかった。ローマ帝国の東西分裂による国力の衰退、また、島へのゲルマン人やイスラム勢力の襲来により、「布教したいんだけれどもねえ……」みたいな状態が数百年ものにわたって継続した。島国共通の閉鎖性ということもあるだろう。コルシカ島では独自の国が発達することはなく、したがって彼らは自分たちを守るための武力に乏しかった。そんな状況で外からの攻撃に絶えず晒されていたわけだから、彼らは逃げる他ない。島を脱出するか、島の内部(山間部)にこもるか。彼らは後者を選んだ。そうすると、ますます外界との交流は少なくなってしまう。

 こうして、コルシカ島の治安が良くなった後も、伝道師にとっては仕事がやりにくい地域となってしまった。彼の地道な努力によってキリスト教は徐々に島民に受け入れられはするのだが、その障壁となった強い閉鎖性が島の文化を独特なものにしていった。

 グルジアとのもう一つの違いは、伝統音楽を危機に追い込んだ原因であろう。先にも書いたが、グルジアでは歴史上、さまざまな文化圏の国によって攻撃され支配された。音楽への弾圧も二度や三度ではなかった。そんな中で伝統が長年にわたって維持されている理由として、民族意識の高まりにあるものと推測した。

 コルシカ島もいく度かの戦乱は経てきたが、イスラム圏の影響から脱出した11世紀以降は基本的にキリスト教国どうしの激突であった。音楽が弾圧される危険性はグルジアほどにはなかったということになる。コルシカの音楽にとっての危機は、戦争や政治というよりも、むしろ第二次世界大戦後の急速な経済発展、あるいは都市化であった。若者の間に、仕事や教育、ライフスタイルなどさまざまな理由から、フランス本土、特にパリへ行きたいという憧れが強くなっていき、結果、島を離れる者が増えていく。島民の日常会話もコルシカ語からフランス語へと変わっていった。それにともない、コルシカ語で歌われる伝統音楽は消滅の危機に陥った。

 日本でもそうであったように、中央への集中が地方の衰退を招く。それを堰き止める力となったのは、「地方を見直そうじゃないか」とか、「地元のことは地元でやろう」といった動きである。コルシカの場合、1970年代の後半から80年代にかけて激烈な政治闘争にまで至った。その中で伝統音楽の再評価が行われるようになり、コルシカ語を歌うグループや歌手が多数現れるようになった。かつて、コルシカ島の地域主義と対立したフランス政府も、現在は島の文化を保護するようになっているという。

   *  *  *

 コルシカ島の歌にはさまざまなジャンルがあるが、その1つであるパディエッラは、2009年になってユネスコの無形文化遺産に登録された。パディエッラは、一言でいえば即興詩吟ということになる。ただ、そこから生まれ、長年伝承されてきた歌に対してもこの呼び名が与えられるようだ。とはいっても、やはり音楽を作りあげるにあたっては、即興で行わないといけないところが大きいようで、習得は簡単ではないらしい。基本は3声で、真ん中の声が詩を歌い上げ、それに低音と高音が次々に加わるといったぐあいである。

 コルシカの男声グループはいくつかあるが、今回は、1978年に結成された「ア・クンパーニャ」のCDを選ぶことにした。MP3アルバム版で試聴が可能である。ぜひ5曲目(So' centu voce di l'esse)を聴いてほしい。超低音が頭からしばらく離れなくなる。この、ロシアを思わせるような音は、コルシカの歌の主流にはないかもしれないが、これを聴くだけでも価値があるCDだ。
03 20
2014

男声合唱

歌う人のためではなく、聴く人のための男声合唱ガイド7 グルジアの男声合唱

トリオ・カフカシア 朝の微風――伝統的なグルジアの歌
★★
O Morning Breeze
O Morning Breeze

 ロシア、トルコ、アルメニア、アゼルバイジャンという4つの国家、および黒海に囲まれたグルジアにおいては、古くから合唱が盛んだったようだ。11世紀から12世紀にかけて活躍したグルジアの哲学者イオアネ・ペトリツィは、3声のハーモニーについての記録を残している。この頃の西欧の合唱が斉唱もしくは二部合唱が大勢だったことを思えば驚異的である。そして、グルジア人は三部合唱という形態を今でも守り続けている。西ヨーロッパで主流となっている4声の合唱は、彼らの音楽においてはそれほど多くない。

 四部合唱という形態に慣れた方からは、どうして彼らは3声で歌っているのかという疑問を持たれるかもしれない。彼らに言わせれば、4パートにする必要がなかったということであろう。なぜなら、男女で一緒に歌う習慣があまりないからだ。グルジア人は男だけ、女だけで歌うことを好む。混声合唱では、男女ともに声の高い者、声の低い者がいるため、男女をそれぞれ2つに分けるのは自然な要求であろうが、男声合唱や女声合唱では必ずしも4つに分ける必要はない。ドミソは3パートだけで鳴らせる(1)。もし、彼らが3つで物足りないと感じればソロを入れればよいと考えた。こうすることで、単純に4声合唱にするよりも音色の対比が大きくなる。合唱では困難な技巧を1人の優れた歌い手にまかせることもできる。

(1)多少専門的な注。ドミソのうち、一番高い音をドにしたい場合、3声だと下の音から「ミ、ソ、ド」とするのが一般的であろう。「ド、ミ、ソ」を和音の基本形というのに対して、「ミ、ソ、ド」は第1転回形と呼ばれ、後者は前者よりも不安定な響きとなる。下のドを加えて「ド、ミ、ソ、ド」とすればより安定した和声となる。4声のメリットはこういったところにある。

 それにしても、3声の合唱を少なくとも900年にわたって守り続けるというのは尋常なことではない。日本のような島国とはまったく違う環境だ。歴史上、四方のあらゆる国々によって攻撃され、支配された。ローマ帝国から、トルコやロシア、ペルシアから、そしてモンゴル帝国からも。もちろん、すべての支配者がグルジアの音楽を保護したわけではない。宗教音楽の中心となった教会は幾度となく破壊されてきた。

 グルジアの合唱音楽を変化させようという圧力は戦争や政治だけではなく、おそらく外の合唱界にもあっただろう。「4声にしようじゃないか」という“外圧”にも長らく晒されてきたに違いない。しかしながら、グルジア人はある程度は4声を受容しつつも、それを中心にすることを望まなかった。なぜだろうか。

 グルジアの合唱を現地で聴いた大橋力によると、グルジア人の中には「ポリフォニーは自分たちがヨーロッパに教えてやったと考えている人が多」いのだという(2)。彼らが本当に西側に伝えたのかどうかはともかく、このような意識を持っているということが重要だ。彼らの、伝統を守ろうとする態度は、おそらく日本人のそれを相当上回っている。自分たちを守るには戦力を高めるだけではない。民族意識の向上が大事だと考えたのだろう。そして、それを高めるためには、自分たちの生み出したものを磨き上げ、守り抜き、そして後世に伝えるという心構えが重要だと、彼らは古くから気がついていたのだろう。だからこそ、外の「新しいもの」に対しても保守的にならざるを得ない。

 彼らの「戦略」は成功した。グルジアの音楽が世界に広く知られるようになってからは、グルジア人だけでなく、他の人たちも守るべきものだとみなすようになったのだ。その証拠に、ユネスコが2001年に無形文化遺産の登録を始めた時に、グルジアの多声合唱は1回目に選ばれるという偉業を成し遂げている。

(2)CD『サカルトベロ奇蹟のポリフォニー――東西の陸橋カフカズの合唱』(ビクターエンタテインメント)

   *  *  *

 トリオ・カフカシア(Trio Kavkasia)によるアルバムを聴いてみよう。カフカシアとはコーカサスのこと。3人のグルジア人……ではなくアメリカ人によって1994年に結成された三重唱団である。Wikipedia英語版にも彼らの記事があるから、そこそこ有名なのだろう。今までに3枚のCDを発売していて、今回紹介するものは2001年にリリースされた2枚目である。

 本当はもっと大人数の合唱団によるものを挙げるべきだろう。もちろん、そちらの方が迫力たっぷりだ。このCDをあえて紹介するのは、彼らの演奏の良さだけではない。グルジアの音楽の個性である3声を、各パート1人で(つまりソロと合唱の対比を行わずに)演奏するだけでもどれだけ豊かな音楽ができるか――それが伝わるのに実に好箇だと思ったからだ。25曲中6曲は伴奏つき。

   *  *  *

サカルトベロの奇蹟のポリフォニー / 東西の陸橋カフカズの合唱
サカルトベロの奇蹟のポリフォニー / 東西の陸橋カフカズの合唱
 先の録音と対照的なものとして、注でも紹介したCDを挙げる。15曲収録されており、前半の7曲は女声合唱。残りが男声合唱である。「メスティアの男声合唱団」による「ザリ」がとりわけ素晴らしい。「平均年齢75歳」であることを感じさせない。

 今回の文章を書くにあたって、二見淑子「グルジア民謡とグルジア正教会の聖歌――その発展と性格(特に音組織)」という論文を参考にしたが、このCDの12曲目「ハッサンベグラ」の歌詞が日本語訳で掲載されている。
03 06
2014

男声合唱

歌う人のためではなく、聴く人のための男声合唱ガイド6 江戸の木遣り

江戸木遣り ベスト
★★
江戸木遣り ベスト
江戸木遣り ベスト
(社)江戸消防記念会 第五区木遣り会
杉林仁一/杉林久男/田中 昭/杉波弘匡/棟方信行/野口義之

  多くの皆様の中には、木遣りを聞いたことがある方もいらっしゃると思いますが、
  ほとんどの方がなにを言っているのか分からないと思います。


 第五区木遣り会が著したCD解説からの引用である。実際、歌詞を見ずに聴くと何を歌っているのかさっぱりだ。少し注意して聴けば、言葉を歌っていることはわかるのだが、一文字一文字が大幅に引き伸ばされている上に、全体の大半が「ヤーレー」だの、「ヨーイ」だの、「アーレーワーサー」といったものなので、意味を理解することは難しい。

 かつてコロムビアミュージックエンタテインメントの最高経営責任者を務めた、廣瀬禎彦の発言を聞いてみよう。

  歌詞はメッセージです。歌を歌うということはすなわち聴く人にメッセージを伝える
  ことです。したがって、まず、聴く人にとって歌詞がはっきりと聞き取れなければ
  なりません。自分は歌詞を歌っているつもりでも聴く人に届いていなければちゃんと
  歌えてない事と同じです。

  http://www.jpma-jazz.or.jp/feature/

 おそらく皆さんのほとんどが、「歌うことはメッセージを伝えること」という教えを受けたことがあるはずだ。その考えを至上とする立場からは、江戸木遣りの歌い手たちは「ちゃんと歌えてない」ということになるのであろう。CDの解説者=木遣りの担い手がなぜ、聴き手に歌詞を伝えられないという状況に甘んじているのか不思議に思うはずだ。もっとわかりやすく歌えないのか?

 彼らは内容の伝達を意図的に拒んでいるのだろうか。もちろんそうではない。でなければ、「なにを言っているのか分からないと思います」の後に、「そのようなわけで分かり易く〔歌詞を〕書いてみました。皆様方に歌っている木遣りが少しでもご理解いただければ幸いに存じます」(括弧内は引用者)と書くはずがない。相手に意味を伝えることよりも、他の面に力を入れることにしただけなのだ。

   *  *  *

 木遣りの歴史について触れよう。木遣りはもともと労働で用いられる歌であった。それが仕事の場を離れて祭りなどで用いられるようになり、やがて祝儀のための歌に変貌していった。今日の江戸木遣りは、後者のタイプに属する。なお、木遣りの原義は字の通り、「木を(どこかへ)やる」ということで、大木を動かす時に使われていた歌のようだ。他にも、重い物を運ぶ仕事、すなわち、家を建てたり、漁師が網を曳いたり、あるいは船を海に下ろす作業の際にも用いられるようになった。

 皆さんも、何人かで一斉に重い物を持ち上げたり、押したりするとき、誰かが「せーのっ」と号令をかけ、みんなで「よいしょっ」などと声を挙げることがあるはずだ。もともとの木遣りもそれと同じである。みんなが同時に力を動かすには、「よいしょっ」の声がバラバラであってはならない。テンポを合わせないといけない。さらに、大勢の人が働く現場なので、「せーのっ役」は周りに聞こえやすいように高い声を使わないといけない。木遣りのソロを担当しているのがたいがい、西洋音楽でいうテノールなのはそういうことなのだ。
 
 仕事をはかどらせるためには、「せーのっ」「よいしょっ」と次の「せーのっ」の間に長い休みがあってはいけない。「せーのっ」「よいしょっよいしょっよいしょっ……」とか、「せーのっ よいしょっ せーのっ よいしょっ……」といったぐあいにすれば一番いい。しかし、そうとう重い物を押したり引っぱったりする際には「よいしょっ」と次の「よいしょっ」の間には適度な時間を置かないと労働者が疲れてしまう。うーん……あんまり長くしてもいかんしなあ、短くしてもみんなが嫌がるだろうし……。そうだ! 何か言葉を入れて歌うことにしよう。歌ならテンポがあるからみんなも合わせられるし、仕事の苦しさも忘れられるんじゃないかな。

 こうして木遣りは誕生した。「何か言葉を入れて」と書いたけれども、あくまでも仕事をはかどらせるためであるから、別に意味のある文言である必要はなかった。つまり、囃子(はやし)言葉で十分であった。自分たちで考えたのか、他の民謡から取り入れたのか、ともあれ、「せーのっ」と「よいしょっ」の間に「コレハセー」だの、「ドッコイー」だのいろいろな言葉が混じるようになった。

 彼らも地域の一員として、宴会やお祭りにも参加していたはずだ。村人だって、木遣りの声を知らないはずがない。宴会にて村人の誰かが、「あんたら、いつもええもん歌うのー。どうじゃ、いつもやってる感じでお祝いの文句を歌ってくれんかー」と木遣り衆へ要求するといったこともあったろう。あるいは、労働者が木遣りの節を、毎日毎日同じように唱えるのは飽きたとか言いながら、祝い歌の歌詞をつけて歌いたくなったのかもしれない。歴史を語るとか言いながら筆者の想像がだいぶ入っているのだけれども、ともあれ、仕事歌としての木遣りはだんだん祝い歌へと変貌していく。

 江戸時代にはお蔭参り、つまり伊勢神宮への参詣が流行したそうだが、伊勢から帰った者たちは、「あっちではこんな歌が流行ってたぜー」などと言って、伊勢音頭を村人たちに伝えていた。木遣りを担う若者たちが感化されないはずがない。ああ、自分たちも歌いたいと。こうして、木遣りの歌詞は伊勢音頭の影響を受けてしまった。そして、ますます仕事歌から離れていく。

 「仕事のための歌」から「祝儀のための歌」への変化。このことは、歌の目的が「自分たちのために」から、「周りの人たちのために」「地域社会のために」へと取って代わられたことを意味する。彼らにはリズムを合わせる必要はなくなったのだ。かわりに、いかにして人々を歌声で魅了するかということに専念することになった。高い音を磨き上げたり、西洋音楽でいうところのビブラートをふんだんに入れてみたり。ずぶの素人には決して歌えない音楽へと鍛えられていった。

 このような疑問を持たれる方もいるであろう。「歌をやるんだからやっぱり、みんなで声の出入りや音程を揃えたほうがいいんじゃないの? 木遣りを聴いているとちっとも合ってないんだけれど。仕事でリズムを合わせてたんだから、それぐらいできるんじゃないの?」

 確かに。彼らだって、外部から「あいつら、声が揃ってねえじゃないか」と批判されれば改善しただろう。おそらくだが、周りはそのように咎めることをしなかった。おそらくを重ねるが、「むしろ揃っていないことがいいんだ!」と評価するようになった。そういえば、作曲家の黛敏郎は、読経の「音楽的な面白さ」についてこのようなことを語っていたことがある。木遣りにも当てはまることだと思う。

  それぞれ自分の一ばん声の出し易いピッチで自由に唱えるとき、不可避的かつ
  偶発的に、非常に複雑な複合音――現代音楽ではトーン・クラスターという――が
  生じ、それが計算されたハーモニーとは全く違った、豊かな音楽的世界を創り出す
  というところにある(1)


 黛が、上の解説を書くこととなった作品が交声曲《般若心経》である。彼はこの作品において、歌い手のピッチを自由にしようと意図した。

 作曲家の間宮芳生に、《合唱のためのコンポジション》という作品がある(2014年現在、第1番から第18番まで書かれている)。第1番の第1楽章は、江戸木遣りを素材とした男声合唱となっている。田中信昭指揮、東京混声合唱団の演奏(日本合唱曲全集 間宮芳生作品集)を聴いてみよう。音楽之友社の楽譜を片手にCDをかけると……あれ? テノールの入りがまるで揃っていない。最初の「ドットコーシェー」はちゃんと合わせられるでしょ? 何でそうしないの? もちろん、これは故意である。作曲家のアイデアか、指揮者の発想かはわからないが、わざとバラバラにしたのだ。

 以上、「同じでないことがいいことだ」と考える人たちの例を紹介した。「歌詞が聞きとれない」という問題も、木遣りの聴衆にとってはどうでもいいことか、むしろそれでいいんだということだろう。出初め式で歌われる木遣りがどういう内容のものかを周りが事前に知っていたとすれば、歌詞の伝達に重きを置く必要はないのだ。

 「ピッチ、リズムがともに乱れているし、歌詞も聞きとれない」というのは、合唱コンクールの場では致命的であろう。だが、木遣り衆と、彼らを取り囲む社会ではそう考えられていない。音楽の良し悪しは単一の価値観によってはかられるものではないのだ。ある種の人にとっては「ちゃんと歌えてない」と難じられるものも、他の人にとっては「実に立派な歌いぶり」と賞讃されることもある。私は皆さんに対して、後者のような立場で木遣りに接してほしいとは望まない。「聴いて損したよ」という感想があってもいい。ただ、このような音楽が成立するのは、それを望んでいる社会がある(あった)からだということが皆さんに少しでも理解できれば、私の紹介の目的は果たせたということになる。木遣りに限らず、チベットの聲明でも、ケチャでも、グレゴリオ聖歌でも、あるいはこれから登場する多くの男声合唱においても同じだ。

(1)「交声曲『般若心経』について」(LP『交声曲 般若心経』ワーナーブラザーズ・パイオニア L-10001W)
 
----------------------------------

 木遣りについては、宮内仁『日本の木遣唄1』『日本の木遣唄2』(日本図書刊行会)が詳しい。木遣りの変化の段階を、歴史を追いながら5つに分けて説明をしており、とてもわかりやすい。なお、江戸木遣りについては著者の意向により(他の人たちによる著述が多いためとして)詳述されていない。

 本文に組み込めなかったもので、ここで、消防団が江戸木遣りを担当している理由について簡単に書く。かつて、消火作業を行っていたのがとび職だったからだ。家の建築のプロである彼らは、周りへの延焼を防ぐために、家を破壊する仕事にも向いていた。木造建築が主流の時代では、彼らは木を運ぶプロでもあったわけで、木遣りを歌うにはもっともふさわしい。
02 17
2014

男声合唱

歌う人のためではなく、聴く人のための男声合唱ガイド5 ケチャ

KECAK from BALI
★★★
Kecak-a Balinese Music Drama
Kecak from BALI


 第4回で書いたことを繰り返す。チベットや日本の聲明にせよ、グレゴリオ聖歌にせよ、それらは長い歴史の中で近年になってようやく注目されるようになった。「これらの担い手は人々を注目させる必要はなかった」とも書いた。

 バリ島のケチャはこの面で対照的である。その歴史は100年にも満たない。だがケチャは、その誕生の当初から外部に注目されるジャンルであった。現在もそう。バリ島の観光本を開けると、たいていケチャにもスペースが割かれている。たとえば、『地球の歩き方D26 バリ島2013~2014年版』(ダイヤモンド・ビッグ社)という本がある。その中に「バリで絶対に楽しみたいこと10」というのがあるが、9つ目「おすすめパフォーマンスはここです!」として、ウルワツ寺院のケチャが写真つきで紹介されている。「バリで一度は体験しましょう!」というキャプションつきで。

 男声合唱は、クラシック音楽のガイドブックにおいて「一度は体験しましょう!」と言われたり、「絶対に楽しみたいこと10」に入ったりすることはない。そもそも、男声合唱がその手の本でとりあげられることじたい稀だ(せいぜいグレゴリオ聖歌ぐらいであろう)。シューベルトの《水の上の精霊の歌 D. 714》や、ブルックナーの《ヘルゴラント》が掲載されている本をあなたはご存じだろうか。そもそもこの2曲は、男声合唱団員でも聴いたことがない方が多数派ではないだろうか?

 脇道にそれた。先ほど「100年にも満たない」と書いたように、ケチャは誕生して間もない民俗芸能である。モスクワ生まれのドイツ人画家、そして音楽家でもあるヴァルター・シュピース(1895-1942)によって生み出された。

 シュピースがインドネシア(当時のオランダ領東インド)に渡ったのは1923年のことである。渡航前、彼はアムステルダムの美術館で展覧会を開いているが、同市の博物館でインドネシアの芸術に接したことが、彼を旅立たせるきっかけになったといわれている。その9年前、彼は抑留され、ロシアのウラル地方に送られている。そこで彼は現地の伝承文化に接し、強い衝撃を受けた。このことも、ヨーロッパを脱出することになった原因の1つである。後に彼は手紙にこう書いている。

  ウラルの山々で三年間の抑留生活を過ごし、そこで本当の生活とは何なのかを
  知り、感じ、見てきた僕にとって、ヨーロッパで寛ぐことは不可能なことでした(1)


 1925年春、彼はバリ島を初訪問する。島の有力者から西洋音楽を教えるよう要望されたことがきっかけだったらしい。ここで彼はサンヒャン・ドゥダリという舞踊を見学している。合唱のリズムに乗って、幼い少女が恍惚状態の中、無我夢中に舞い踊る様子を見て、心を揺さぶられた。

 舞踏劇としてのケチャは、このサンヒャン・ドゥダリをもとに創作された。それは1930年5月、バリ島のブドゥル村の寺院で行われたサンヒャン・ドゥダリにさかのぼる。その際、男声合唱のリーダー役を務めることになっていた者が病気のため、イ・ワヤン・リンバックという20歳の若者がリーダーを代行することになった。

 合唱は、少女をトランス状態に導き、踊ってもらうための役割を演じる。しかしながら、リンバックは――自らもトランスに入ってしまったのであろう――突如立ち上がり踊り始めた。合唱を導きながら踊り狂うリンバックの様子に感銘を受けたシュピースは、儀式の翌日、村人に向かって舞踏劇を作ろうと提案した。

 その話し合いの中で、インドの「ラーマーヤナ物語」をもとにした劇になることが決まっていった。振付はシュピースが行い、踊りの中心役はリンバックが務めることとなった。

 当時のバリ島は、海外からの観光ブームの中にあった。シュピースは、村に伝わる儀式や踊りを観光客向けにアレンジする仕事を行っていた。彼が舞踏劇ケチャを外部に公開しようと村人たちとともに作り上げていた最中、彼はある仕事を引き受けることとなる。ヴィクトル・フォン・プレッセン監督による、バリ島を題材とした映画撮影への協力であった。その映画のクライマックスは、シュピースと村人たちによって作り上げられたケチャのシーンである。こうして、ケチャは映画を通して多くの人々の目に留まることとなった。

 その映画のタイトルは「悪霊の島」である(「悪魔の島」とも呼ばれている)。ケチャは、映画「悪霊の島」の制作にあたって創造されたという説が広く流布されているが、実際にはその少し前から作りあげられていたのだ。

 後に、シュピースはケチャについて、バリ人による創作だと主張した。しかしながら、リンバックによると、シュピースが重要な関与をしたということである。おそらく、彼は自分の役割を隠したかったのであろう。その理由は3つ考えられる。

 まず、彼の謙虚さゆえであろう。「私はバリ人の芸能を手助けしたにすぎない」と。

 2つ目は、村人たちの収入面である。シュピースが観光客向けに踊りをアレンジしていた理由の1つがこれなのだ。

 お客が見たいのは、本場の芸能である。自分が表に出たら、バリ人の芸能ではなく、シュピースの創作芸能だとみなされるだろう。それではツーリストたちに見てもらえなくなるのでは……(村人がお金を得ることができなくなるのでは)と考えていたのではないか。

 3つ目は、ウラル地方で過ごした頃から抱き続けた、民族文化への憧れである。

 踊りにせよ、音楽にせよ、それらの誕生にあたっては、作者(作者たち)がいたはずだ。しかしながら後の世代に伝えられる中で彼らの名前は忘れられた。バリ島では昔から絵や彫刻も盛んであったが、その制作者たちも忘れられた。作者という概念が必要ではない社会だったからである。バリには「芸術家」に相当する言葉はなかった(2)。「バリの人々はみな畑で働いたり、豚にえさをやったりするのと同じように詠歌を歌ったり、奉納の踊りを踊ったりする」(3)とシュピースは綴っている。

 彼は、バリ島の人々に共感を持つ者として、彼らと同じような道を望んだ。名無しの1人になればいいと、そう願っていたのではないか。

 もちろん、シュピースがケチャの創作にたずさわったことは多くの文献にある。踊り手のリンバックも公言している。シュピースの意図は失敗してしまったといえるのかもしれない。しかし、すべてのバリ島旅行者が、彼のことを知っているわけではない。そうした人たちにとっては、ケチャはバリ人のみによって作りあげられた伝統芸能だと信じられているであろう。なお、ケチャはシュピースの手を離れた後もアレンジが加えられた。ケチャは個人の仕事から、バリ島の文化へと着実に変わり続けている。

 シュピースがバリ島に旅立つ前、1922年の手紙にこう書かれている。

  民族芸能は、作者がわからないものほど真実をもたらすのです(4)


(1)伊藤俊治『バリ島芸術をつくった男――ヴァルター・シュピースの魔術的人生』(平凡社)p. 68
(2)同p. 79
(3)同p. 80
(4)坂野徳隆『バリ、夢の景色――ヴァルター・シュピース伝』(文遊社)p.85。ケチャのルーツについてはこの著書を参考にした。


   *  *  *

 今回、冒頭で紹介したCDは、手持ちのケチャの中から一番いいものを選んだ。国内盤では『甦る伝説のケチャ』が素晴らしい。300人以上の演奏なのにリズムがほとんど乱れないということに驚嘆させられる。また、本稿では一切割愛した、ケチャのリズムの解説については、『神々の森のケチャ』が実にわかりやすい。

 国内盤の2枚の解説を担当している大橋力は、山城祥二という名前でも知られ、芸能山城組の創設者としてケチャの普及につとめている。CD『芸能山城組入門』にケチャの合唱パターンを1パートずつ紹介するトラックがあるので、こちらを聴くことで、よりケチャへの理解が深まるであろう。

甦る伝説のケチャ
甦る伝説のケチャ

神々の森のケチャ
神々の森のケチャ

芸能山城組入門
芸能山城組入門
05 13
2013

男声合唱

歌う人のためではなく、聴く人のための男声合唱ガイド<番外編> なぜ、男だけで歌うのか

 ここまで4回にわたって、男声合唱による仏教音楽とキリスト教音楽をとりあげた。聲明もグレゴリオ聖歌も、原則的に男のみによって演奏されてきた。彼らはどうして、女と一緒に歌わなかったのだろうか。

 答えは簡単だ。女とともに活動することを彼らが拒んだのだ。なぜ拒むのか? 今回はこのことに少しだけ触れておきたい。

   *  *  *

  教会では、妻たちは黙っていなさい。彼らは語ることを許されて
  いません。律法も言うように、服従しなさい。
                  コリント人への手紙第1 第14章34
                          ※傍線部は引用者。
   (新改訳聖書刊行会訳『新改訳 新訳聖書』日本聖書刊行会)


 教会音楽への女性の参加は、長らくの間認められていなかった。下線部は、左記のことを書く際にしばしば引用されるようである(1)。しかしながら、次のような疑問がわく方もいるだろう。「『妻たちは黙っていなさい』と聖書にあるけど、未婚の女はどうなの? 別に黙っている必要はないんだよね」
(1)皆川達夫『改訂版 合唱音楽の歴史』(全音楽譜出版社)p. 17や、ロバート・ステファン・ハイネス『合唱曲の作曲』(グリーンウッド)p. 140〔Robert Stephan Hines, Choral Composition, Greenwood Press〕。なお、第14章35には「もし何かを学びたければ、家で自分の夫に尋ねなさい」とあるので、「妻たち」を女一般に解釈することはできない。

 確かにそうなのだ。しかし、下線部を支持する者は、教会音楽から女全体を締め出したかったようだ。女であれば自然に出せる高音を、彼らは、声変わり前の少年に行わせた。または裏声を使って。あるいは男を去勢させてまでも。なぜ、そこまでして女を入れたくなかったのだろう。

 ソフィー・ドリンカー『音楽と女性の歴史』(水垣玲子訳、學藝書林)は、そのような疑問を持った者がまず手にすべき好著だ。歴史以前の時代において、あるいは文明の初期において、女は男よりも音楽の環境に恵まれていた。音楽はもっぱら女によって支えられていた。しかしながらやがて、音楽に男が進出し、女が担っていた役割を奪う。そして女を追放してしまうのだ。

 キリスト教が誕生してしばらくの間は、女声合唱が活発に行われていたようだ。女だけではない。男と女による混声合唱も行われていた。しかしながら、ある時期から男が女を追放しはじめた。というよりも、キリスト教が生まれる以前から存在していた、女性蔑視の思想がいつしかキリスト教全体の中で優勢を占めるようになっていったと表した方がよいだろう。教会音楽から女がまったくいなくなることはなかったけれども、彼女らは修道院の中に閉じ込められ、以後、教会音楽の中心は男たちが握ることになる。

 女と歌うなんてとんでもないと彼らは考えた。彼らにとって、女は「寄ってきては困る存在」なのだ。そのように考えた理由を本格的に考証すると、本が1冊できてしまうだろう。なので簡単に。1つだけ書く。性欲だ。ここまでキリスト教について書いてきたけれども、人間の性欲は普遍的に存在するわけで、仏教についても同じことが言えるに違いない。

 仏教と性についての著書は、愛川純子・田中圭一『セクシィ仏教』(メディアファクトリー)が断然面白い。禁欲を善としているはずの僧侶が、あんなことやこんなことをしてまで性欲の処理に頭を抱えている(今「あんなこと」や「こんなこと」を考えた人たち! その中の10人に9人ぐらいは「僧侶の発想にはかなわんわー(;´д`)」と打ちのめされるか、呆れ果てることだろう)。

 性をどのように遠ざけるかについては、僧侶にとっても、牧師や修道士にとっても重要なことだ。酒や肉であれば遠ざけるのは比較的簡単である。それらは動かないからだ。女は動く。ありがたいお言葉を聞きに男に近づいてくるのだ。「ひっ! 近寄るな! 近寄るなと言っておろう!」こんなことを思っていたかどうかはわかりませんが、女を厄介な存在だとして、飲食物以上に蔑視していたとしても不思議ではない。彼らが女を排除する方法は2つだ。自分たちが特定の場所に閉じこもり女の侵入を防ぐ。もう1つは、女を閉じ込める。2つめが行えるのは、禁欲を重視する者が、社会の中で大きな力を発揮できるようになった時である。

  女に対して男自身の衝動を抑圧しなければならないために、女は
  抑圧されるべき存在となったのである。
                 ソフィー・ドリンカー『音楽と女性の歴史』


   *  *  *
 
 引用でバシッと(?)終わらせようと思ったけれども、一言補足しておく。今回のテーマを、男声合唱団一般に当てはめないでいただきたい。現代の男声合唱団員は、別の理由で女と分かれて歌っているのだから。
プロフィール

scaffale

Author:scaffale
「日本詩人愛唱歌集」「校歌の花束」の管理人

最新トラックバック
QR

Page Top
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。